<カンタベリーの歴史>カンタベリー物語、大主教座

カンタベリーの歴史にかんして

カンタベリー

皆さんは、カンタベリーと云う名前もしくは名称を御存知だろうか。
日本では、アウトレット、札幌の店、コラールが評判だ。
参照事項として、このブランドの通販の売れ筋はカタログによると、福袋、バッグ、ポロシャツ、ヘッドキャップの順だ。
このカンタベリーとは、イギリスの地名の事で英語では[Canterbury]と記述する。
ここは、イングランド南東部のケント州東部にある都市で大主教座都市でもある。
人口は約4万2000人レベルで、青銅器時代や新石器時代の遺跡が発見されている。
ついでに、新石器時代とは、紀元前8500年前から10000年程も昔の事で、カンタベリーには、これほど古い時代から人間が定住していた証拠が残っているのだ。
また、ケルト人の首都もここにあったと云われている。
更に時代は進み、ローマ軍に占領された後に街は要塞化されて、カンタベリーはラテン語で[Durovernum Cantiacorum]命名された。
5世紀中期頃にはアングロ・サクソン人がこの土地を支配していた記録が残っている。


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カンタベリーと修道士アウグスティヌスについて

カンタベリー

6世紀の終わり頃からは、カンタベリーのブリタニア(グレートブリテン島)を中心にアングロ・サクソン人が諸王国を建国しスタートした。
これを見計らってか、教皇グレゴリウス1世の命令を受けた修道士アウグスティヌスを中心とした修道士団が、キリスト教のブリタニア伝道に出発した。
現状のケント州のカンタベリーにあったケント王国の王様・エセルバートが、修道士アウグスティヌス一行をこころよく迎え入れた事から、ここがブリタニア布教の拠点となった。
其の後、西暦601年に、この修道士アウグスティヌスが初代カンタベリー大司教に就任した。
この一件以後、ここがイングランドにおけるキリスト教の中心地となったのだ。
其の後、ノルマンディー公ギヨームによるイングランド征服事件等、イングランドでは多種多様な戦乱が巻き生じたが、それでも着々とキリスト教の大司教座のある町として権威を高めていった。


カンタベリー大聖堂とトマス・ベケットについて

11世紀の最後頃には、ウィリアム2世と叙任権闘争が生じ、カンタベリーの大司教が亡命すると云う大きな事件が生じた。
更に其の後も大司教トマス・ベケットが、裁判権を巡ってヘンリー2世と対立する事件が起こり、トマス・ベケットは亡命してしまう。
トマス・ベケットはのちに帰国を果たすのだが、カンタベリー大聖堂内の祭壇で祈祷中にヘンリー2世の部下に暗さつされてしまった。
この事件を気付いたローマ教皇は、トマス・ベケットを殉教者として列聖したのだ。
それ以後、カンタベリーは聖トマス・ベケット殉教の地となったわけだ。
カンタベリー詣(もうで)と称される巡礼が実践されるようになり、毎年相当の巡礼者がやってくる事になった。

カンタベリー物語、カンタベリー大主教座について

1387年には、ジェフリー・チョーサーと云う超有名な作家が[カンタベリー物語]を著した。
1534年には、ヘンリー8世が離婚問題を発端に教皇と対立する。
この対立によりヘンリー8世は[国王至上法]を発令し、カトリックと絶縁したてしまう。
しかしながら、これを気付いたカンタベリー大司教は、ヘンリー8世の離婚を許可する独自の決断を下すのだ。
この結果、大司教はローマ教会から事実上分離する事になり、独自の宗教路線を歩む事になったわけだ。
1559年には女王エリザベス1世が[統合令]を発令し、大司教座はカンタベリー大主教座と改名され、英国国教会の総本山の地位を獲得したのだ。

 

 

 

 

 

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